苦しみは、なぜ生まれるのか
「自分」という錯覚によって苦が生じる
そもそも全ての苦しみは、
「自分」という実体がある
という錯覚から生じます。
仏教では、自分があるという錯覚を
有身見(うしんけん)
と呼んでいます。
この錯覚がないと、全ての現象にしがみつくことはありません。
「それが起こっている」
これだけです。
・ただ誰かの声が聞こえた
・ただそう思った
・ただ痛みが生じた
ところが「自分」という錯覚が生じると、こうなります。
誰かが話している声が聞こえた
↓
「私」の悪口を言っていると思い込む
↓
傷つく(苦しみ)
↓
悪口を言われないよう、人に迎合する(苦しみ)
「あの人嫌いだな」と思った
↓
「私」ってなんでこんな考えをしてしまうんだろう。
そんな考えを持ってはダメだ↓
自己否定(苦しみ)
このように、単に生じた出来事や感情を「自分」と結びつけ、
しがみついたり拒絶したりすることで、苦しみが生まれます。
実体がないとは、どういうことか(無常・無我)
「自分という錯覚から苦しみが生じる」
と聞いても、皆さんは、
「いや、私は自分を感じる」と思われるでしょう。
そこで、実体がないとはどういうことか、詳しく説明します。
そもそも、「自分」だけでなく、
一切のもの・現象には、実体がありません。
永久不滅に変化しない、固定化されたものなど、存在しないのです。
仏教では、このことを
無常・無我
と呼びます。
無 常
常ではないこと。変化するということ。
一切のもの(現象)は、瞬間瞬間、生じては変化し、滅していく、安定が無いこと。
無 我
一切のもの(現象)は、無常であり変化するため、
真の実体・固定化された自我は無く、「状態」に過ぎないこと。
「ああなれ、こうなれ」とコントロールする主体が無い。
様々な要因が、生滅変化しながら依存しあう「流れ」でしかない。
例えば、私達が「机」と呼んでいるものは、
プラスチックでできた脚、
木でできた板、
鉄でできたネジなどが組み合わさったもの。
更に、木も鉄も、分子・原子の集合体。
これらは、同じ状態で存在しているわけではありません。
少しずつ傷み、劣化し、常に変化しています。
100年経ったらボロボロになり、「机」と認識できない形状になっているかもしれない。
一切のもの・現象は、そういった、様々な変化し続ける構成要素が絡み合った「状態」にすぎず、
「これ」といった固定化された「実体」が無いというわけです。
人間が勝手に、「ある時点での状態」を、「机」「ネジ」などと名付け、
それがそのまま同じ状態で、存在し続けているかのように錯覚しているだけです。
人間も机と同様、様々な構成要素が絡み合った「状態」に過ぎません。
肉体を考えれば、
肉・血液・体液・内臓・タンパク質・分子・原子・・・と分類でき、
「机」と同様、一瞬たりとも同じ形状を保っておらず、生滅変化し続けています。
感情も思考も感覚も、ずっとは続くものではありません。
その時点での集合体・状態でしかないのです。
・切った爪は「自分」でしょうか?
・床に落ちた髪の毛は「自分」でしょうか?
・1時間前に生じた怒りの気持ちは「自分」でしょうか?
・「あ~、アイス美味しかったな」と感じた気持ち・思考・味覚は「自分」でしょうか?
・「暑い」という感覚は「自分」でしょうか?
どこにも、固定化された「自分」などという実体は、存在しないのです。
あるのは、その時その時の肉体、感覚、気持ち・感情、思考。
これらが絡み合った「状態」を、私達は「自分」「人間」と定義しているに過ぎません。
そして、それらは瞬間瞬間、変化しては消えていきます。
このように、「自分」という確固たる実体がないことを、
実際に自分の心を観察する中で理解していくと、
たとえば不安や怒りや痛みが生じても、
・不安が生じては消えていくな
・怒りが生じては消えていくな
・痛みが生じては消えていくな
と、ただ、あるがまま放っておくことができ、苦しみは生じません。
仏教では、
・無常・無我などを「真理」
・この真理が分かっていない状態を「無明(むみょう)」
と言い、
無明こそが苦の根本原因
とされています。
「自分」という錯覚(有身見)も、
無常・無我という真理を理解していない「無明」から生じます。
・「真理」とは「無常・無我」
・真理を理解していない状態を「無明」
・無明が苦の根本原因
無明から苦しみが生じるまで
現象が生滅変化してるだけの状態を、「自分」と錯覚することによって、
・「自分」を存続させたい
・「自分」が良い状態でいたい
・「自分」が嫌な状態になりたくない
と、現象をコントロールしようとする欲が生じます。
でも、無常・無我な現象をコントロールできないことで苦しみが生じます。
ここでは、苦しみが生まれる過程を、さらに詳しく見ていきます。
こうした根本的な欲から、私達は、こんな様々な欲を抱きます。
- 人に認められたい、愛されたい
- 人に優しい自分でありたい
- 不安や心配事なく生活したい
- 生き生きとした気持ちを、いつも持っていたい
- 病気や体調不良は体験したくない
- いつまでも若々しくいたい etc
この欲が叶わない時、私達は
苦しみ・生きづらさ・ストレス
と呼ばれるものを感じるのです。
「人に認められたい」
「老いずに若々しくいたい」
と願っても、自分ではどうにもなりません。
一時的には、その欲は叶ったように見えることもあります。
でも、すべては、無常で無我だから、結局、自分の思い通りにはならないのです。
仏教では、このことを、
「一切行苦」
(一切皆苦と誤って広まっています)
と言います。
そして、無明と並んで、
「渇愛(欲)・執着」
も、苦の原因と位置付けています。
欲を抱いたり、欲に執着するのも、真理を理解していないからです。
つまり、渇愛・執着のさらに根にあるのが無明です。
ですから、無明を晴らすことが、苦を滅する最も大切なことになります。
仏教の修行も、無明を晴らしていくことを目的としていて、
無明から解放された状態を「悟り」と呼びます。
一切の苦しみが生じなくなった状態です。
セッションで、「心を、苦しみの仕組みを、理解しましょう」
と強調するのも、無明が晴れれば苦しみが無くなるからです。
では、実際の心の中で、この苦しみはどのように複雑になっていくのでしょうか。
私はその過程を「3つの心の層」に分けて説明しています。
苦しみが生じる「3つの心の層」
第1の層
ここまで説明してきた苦しみの基本的な仕組みが、第1の層です。
自分という錯覚が生まれる層。
「私は見る」「私は考える」「私は感じる」etc
人間を含め、全ての生命は、
快(気持ち良い)と不快(気持ち悪い)
を感じます。
自分という錯覚が無ければ、ただそれだけ。
快・不快を感じるだけです。
そこに苦しみはありません。
でも、「自分」という錯覚が生じると、このように心が動きます。
単なる快
↓
「自分」の快
↓
好き
↓
追い求める
単なる不快
↓
「自分」の不快
↓
嫌い
↓
拒絶する、逃げる
快を追い求め、不快を拒絶しようとする動きが、
渇愛(欲)です。
このため、
・快が消えること
・不快が生じること
が、苦しみになるのです。
人間のみならず、生命全てが感じる苦しみで、
「自分」という錯覚が晴れない限り続きます。
非常に単純な心の動きですが、
人間は第2の層、第3の層の影響で、この単純な動きを
かなり抑圧しています。
例えば、「人に感謝できる人間でなければならない」と思っていると、
プレゼントをもらった時に、
「うぁあ、こんなものいらない。余計なお世話だな」
と不快感を感じても、それを無意識下に抑圧してしまいます。
そして表面的には「ありがたい」と思おうとしても、
本心を抑圧しているので、「なんかモヤモヤする」となります。
「子供の頃は単純で、悩まなかったなあ」
なんて思いませんか?
小さい子供は、動物と一緒で、この層の動きを大人ほど抑圧しません。
好きな物は好き・欲しい、
嫌いな物は嫌い・イヤ。
小さい子ほど、これだけで終わりです。
セッションでは、まずこの抑圧に気づいて頂くことが、
大きなテーマの1つになります。
第2の層
「こういう人間」という自分像が作り出される層です。
第1の層で「自分」という存在を感じることで、
「自分はこういう人間でありたい・こういう人間でなければならない」
という自己像が生まれ、善悪の基準、価値観 につながっていきます。
・優しい人でありたい
・人の役に立つ人間でありたい
・こうでなければ価値が無い、存在できない
・〇〇できない自分はダメだ、存在してはいけない
・だから〇〇しなければならない
そして、その「こういう自分」から外れることで、
罪悪感・怒り・不安・自己否定・自己犠牲・他者優先
など、様々な苦しみが生じることになります。
この層の心の動きは、自覚できないことが多いため、
「なぜ苦しいのか、自分でもよく分からない」
ということが起こります。
そのため、セッションでも、この層を重点的に扱うことが多いです。
第3の層
第2層から生じる反応や行動が繰り返され、
「性格・反応パターン」として定着する層です。
「人に嫌われる自分ではいけない」
↓
人の顔色をうかがい、相手に合わせる
↓
それを繰り返す
↓
「人に気を遣う性格」
・私は人に気を遣う性格
・自分はちょっと怒りっぽい
・人からよく〇〇な人と言われる etc
普段、多くの方が「自分の性格」として自覚している部分です。
ここでも、様々な苦しみが生じます。
この層の動きは、多くの方が自覚しやすいため、
セッションで最初にお聞きする表面的なお悩みは、
この層の動きになります。
3つの層をまとめると、以下になります。
第1の層
「自分」という錯覚
↓
第2の層
「こういう人間でありたい・こういう人間でなければならない」という自己像。
↓
第3の層
「こういう人間」が繰り返された性格・反応パターン
この3つの層は、それぞれ独立したものではなく、
第1層から第2層、第3層へとつながる因果関係にあります。
ですから、苦しみを根本から理解するには、
この3つの層すべてを観察する必要があります。
セッションでは、まず第3層、第2層の心を明らかにしながら
次第に第1の層にもアプローチし、
・「自分」の気持ち
・「自分」の考え
のように、心に生じた気持ちや考えを「自分」と結びつけてしがみつかず、
ただ「生じたもの」として観られるようになる。
そのように、苦しみの根本から解放される方向へ導きます。