苦しみ・生きづらさの正体とは?
多くの方は、「苦しみの本質・苦しみとは何か」が分かっていません。
苦しみ・生きづらさとは、一言で表せば、
「自分の思い通りに、物事がいかないこと」
です。
私達は、たくさんの願いを持って生きています。
・人に認められたい、愛されたい
・人間関係が上手くいきたい
・色々なことに熱中できる自分でありたい
・人に優しい自分でありたい
・不安や心配事なく生活したい
・生き生きとした気持ちを、いつも持っていたい
・病気や体調不良は体験したくない
・いつまでも若々しくいたい etc
こういった願いが叶わない時、私達は、
苦しみ・生きづらさ・ストレス
と呼ばれるものを感じるのです。
つまり、
自分の「願い・期待・欲求・理想」と、現実が合っていない状態
ですね。
苦しみや生きづらさを感じた時、
私達は、「現実」の方を変えようと必死になります。
そうすると、ますます現実との摩擦が起こって、苦しみは大きくなります。
なぜなら、現実をコントロールすることは、できないからです。
「人に認められたい」
「老いずに若々しくいたい」
と願っても、自分ではどうにもなりません。
「こういう自分になりたい!」
と理想を持ったところで、理想通りにはいかないのです。
つまり、
現実をコントロールすることは、本質的には不可能
なのです。
願いは叶わないのが当たり前。
だから、願いを持てば、必ず苦しみ・ストレスが生じるということです。
仏教では、このことを、
「一切行苦」
(一切皆苦と誤って広まっています)
と言います。
苦しみの始まり
では、なぜ私達は、思い通りにならないことで苦しむのでしょうか。
その根本には、
「私」という実体・主体を感じること
があります。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」。
この言葉、誰もが疑いませんが、これは錯覚です。
「我思う、ゆえに我あり」
ではなく、正しくは、
「思いが生じた」
ただこれだけ。
でも、生じた思いを「我」と結び付けてしまった。
これが苦しみの始まりです。
この話を聞いても、皆さんは、
「え、でも自分を感じるし、じゃあ『この自分』は何者?」
「自分と錯覚をしているかもしれないけれど、それがなぜ苦しみの始まりなの?」
そう思うかもしれません。
これからじっくり解説しますね。
「自分」という実体はない
人間は、様々な構成要素が絡み合った「状態」に過ぎません。
肉体、気持ち、思考、感覚。。。
これらが絡み合った状態を、
私達は「自分」なり「人間」と定義しているだけなのです。
そして、これらの構成要素は、瞬間瞬間、変化し続けている。
肉体を考えれば、肉・血液・体液・内臓などに分類でき、
更に、タンパク質、脂質、糖などに分類でき、
最終的には、分子・原子レベルにまで細分化される。
そして、分子も原子も変化し続けています。
心も同じです。
心の構成要素は、感情、思考、記憶、認識などです。
肉体と同じように、心の構成要素も変化し続けています。
・生まれてからこれまで、ずっと怒りが同じテンションで続いている人がいますか?
・1つのことを、何十年も、片時も忘れず、考えている人はいますか?
・壁にぶつけた足の小指の痛みが、治まらなかった人はいますか?
感情であれ、思考であれ、感覚であれ、
一瞬たりとも、「同じ状態」を保つことはできないのです。
全ての現象は、生じては変化し、消えていくもの。
それらの集合体・状態を、どうやって「自分」、「人間」などと定義できますか?
・切った爪は「自分」でしょうか?
・床に落ちた髪の毛は「自分」でしょうか?
・1時間前に生じた怒りの気持ちは「自分」でしょうか?
・「あ~、アイス美味しかったな」と感じた気持ち・思考・味覚は「自分」でしょうか?
・「暑い」という感覚は「自分」でしょうか?
どこにも、固定化された「自分」などという実体は、存在しないのです。
あるのはただ、その時その時の、肉体であり、感覚であり、気持ち・感情であり、思考であり、
「状態」
に過ぎないのです。
そして、その状態は、瞬間瞬間、変化しては、消え去ってしまうものです。
ですから、「人間」と言うたる実体はないと言うことになります。
無常・無我
今まで説明したことは、仏教で、「無常・無我」と呼ばれているものです。
「無常」
常ではないこと。変化するということ。
一切のもの(現象)は、生じては変化し、滅していく、安定が無いこと。
そのために、どれだけ「ああなって欲しい、こうなって欲しくない」と願っても、
思い通りにならずに、「苦しみ」が生じます。
・「楽しい」という感覚がずっと続いて欲しい、と思っても、消えていってしまう。
・「不安」という感情が生じて欲しくない、と思っても、生じてくる
(でも、自然と消えていく)・「老いたくない」と思っても、肉体が変化する
・「壊れて欲しくない」と思っても、スマホを床に落とせば、壊れる
・「ずっと愛して欲しい」と願っても、愛は冷める(変化する)
「無我」
一切のもの(現象)は、無常であり変化するため、
真の実体・固定化された自我は無く、「状態」に過ぎないということです。
だから、「ああなれ、こうなれ」とコントロールする主体が無い。
様々な要因が、生滅変化しながら依存しあう「流れ」でしかない、ということです。
私はよく、川の流れで説明します。
川は、一瞬たりとも、同じ状態を維持しません。
川には主体がありません。
だから、川に向かって、
「水の流れを止めろ。水温を上げろ。水の色を赤色にしろ」
と言ったところで、耳を傾ける主体、命令を聞く主体が無いから、その命令は聞き入れられません。
「水の流れが止まって欲しい、水温が上がって欲しい。赤色になって欲しい」
と願っても、その通りにはならないのです。
「不安は生じるな」と言っても聞いてくれる主体はありません。
望もうが望むまいが、不安は勝手に生じるのです。
欲を抱けば、執着すれば、苦が生じる
無常であり、無我である現象は、コントロールすることができません。
つまり、
欲を抱けば抱くほど、苦しみが生じる
のです。
私達は、無常や無我を理解せず、欲を抱くことによって、いつもいつも、苦しんでいます。
・良い人間になりたい。人より秀でていたい
・あの人に嫌われたくない
・イキイキとした気持ちで生活したい
・病気になりたくない
でも残念ながら、これらは、叶うことがありません。
一時的には、叶ったかのように感じる時もあるでしょう。
でも無常ですから、すぐに変化していってしまうのです。
・テストで1番になって、人より良い成績を取れることもあるでしょう。
でも、別の時には、追い抜かされたりします。
・今、病気でなくても、いつかは病気になります。
・今、あの人に好かれていても、別の日に嫌われる可能性があります。
・今、良い気分でも、30分後には、気分を害しているかもしれません。
・逆に、今、怒りの感情が生じていても、誰かに褒められたら、気分は一変します。
全ては無常であり、無我。
思い通りにはならないし、一瞬たりとも、同じ状態ではいないのです。
無常・無我を無視して
「思い通りになって欲しい。この状態が続いて欲しい」
という欲によって、苦しみが生じます。
なぜ欲を抱き、執着するのか
「自分」という錯覚を感じると、
・「自分」を存続させたい
・「自分」が良い状態でいたい
・「自分」が嫌な状態になりたくない
と、自分のために、都合の良い状況を作ろうと、物事をコントロールしてしまいます。
「自分」が無ければ、
・ただ音が聞こえた
・ただそう思った
・ただ痛みが生じた
ただそれだけ。
そしてそれはすぐに過ぎ去ってしまうことなのに、
「自分がいる」と錯覚すると、こうなります。
・ただ音が聞こえた⇒ 「私」の悪口を言っている ⇒ 傷つく ⇒ 傷つきたくない(欲) ⇒ 人に迎合する(苦しみ)
・ただそう思った ⇒ 「私」ってなんでこんな考えをしてしまうんだろう ⇒ 自己否定 (苦しみ)
・ただ痛みが生じた ⇒ (「私が」)痛い! だれだこんなところに物を置いたのは! ⇒ 怒り(苦しみ)
結局のところ、「自分」という錯覚によって、全ての苦しみが生まれます。
ですから仏教の修行というのは、
この「自分」という錯覚を晴らす目的で行うのですね。
「自分」という錯覚が晴れ、そんな確たるものは無いと確実に理解できた状態を、「悟り」と呼びます。
つまり、一切の苦しみが生じなくなった状態です。
私のセッションでも、「自分」と言うものにしがみつかない方法を、いろいろとお伝えしています。
苦が生じる3つの層
ここまでは、「自分」という主体を感じることから、欲が生まれ、苦しみが生じる根本的な仕組みを説明しました。
では、この「自分」は、私たちの日常生活の中で、具体的にどんな苦しみを作っていくのかでしょうか。
私は、その過程を「3つの層」で説明しています。
【第1の層】
絶対的な存在としての層
「我思う、ゆえに我あり」の世界です。
自分という存在が「在る」と感じること。
「私がいる」という主体感。
「私は見る」「私は考える」「私は感じる」etc
これは、先ほど説明した、
「私」という実体・主体を感じること
そのものです。
第1層の絶対的自分は、まだ具体的な苦しみを生み出しません。
ただ「自分が在る」だけですから。
【第2の層】
「こういう人間」というストーリー。
第1の層で「自分」という存在を感じると、
人それぞれ、様々なストーリーを創り出し、そのストーリーに応じて欲が生じます。
「私はこう思う」
「私はこうすべき」
「私は悪い/正しい」
「私はこういう人間だ」etc
ここから、具体的な苦しみが始まります。
例えば、
「私は人に優しくできる人間だ」
という物語を作ってしまうと、
優しくできない時や、自分のことを優先したい時に、
「こんな優しくない自分はダメだ」
と自分を責めたり、罪悪感を抱きます。
また、常に、
「優しくできなければならない」
と自分に義務を課すようになります。
・私はこうでなければ存在できない
・こうでなければ価値がない
・こうでなければ愛されない
・こうでなければ安全ではない」
・だから〇〇しなければならない
・〇〇できない自分はダメだ、存在してはいけない
様々なストーリーが創り出され、
そのストーリーを何とか維持しようと欲が生じ、その結果、
罪悪感・怒り・不安・自己犠牲・他者優先・嫌だ嫌だ・トラウマ・ストレスなどの反応によって、
苦しみが生じるのです。
そして、この層の多くは無意識領域に抑圧されていて、
普段は自覚化できないことが多いです。
ですから、
「なぜ苦しいのか、自分でもよく分からない」
ということが起こります。
【第3の層】
「こういう人間」が繰り返された性格・反応パターン。
第2層の反応が繰り返されて、
「性格・反応パターン」
として定着する層です。
・私は優しい人間
・自分はちょっと怒りっぽい
・人にこんな風に見られたいな etc
普段、多くの方が「自分の性格」として自覚している部分です。
ここでも、様々な苦しみが生じます。
3つの層をまとめると、以下になります。
第1の層
絶対的な存在としての「自分」↓
第2の層
「私はこういう人間」というストーリー↓
第3の層
「こういう人間」が繰り返された性格・反応パターン
この3つの層は、因果関係にあります。
つまり、この3つの層、全てを理解しなければ、
苦しみから解放されることはできないのです。
私は、この3つの層を観察し、理解し続けたことで、
「苦しみとは何か」という智慧が生じました。
心の奥底・本心には、なかなか気づけない
ここで重要なのが、
「第2の層の多くは、自分では気づいていない」
ということです。
つまり、
・自分がどんな欲を抱えているのか、
・なぜそれほど強く「こうなってほしい」と思っているのか、
そのこと自体に気づいていません。
例えば、恋人や友人と待ち合わせをしていて、相手が遅れてきたとします。
表面的には、
「なんで約束を守れないんだろう。失礼だな。いっつも遅れるんだよな~」
なんて、怒りの感情を感じたりしますね。
でも本心は、
「早く会いたいよ~。寂しいよ~。
私との待ち合わせ、いつも遅れるのは、軽んじられているのかな。
悲しいなあ」
といったように、
「早く会いたい!」
という強い願望が、心の奥底にあるかもしれません。
その願望が叶わないから、
「寂しさ・悲しさ」という感情が生じて、
苦しみ・ストレスを感じている。
でも、この
心の奥底にある本心(欲)
に、私たちは、なかなか気づけません。
「何かモヤモヤする」ことありませんか?
皆さん、よくこんなことをおっしゃいます。
「何だかよく分からないけれど、気持ちがモヤモヤする」
これも、無意識の気持ちが分かっていない時です。
例えば、人から何か物をもらったとします。
表面的には、
「親切な人だな、ありがたいな」
と思ったりする。
でも、何だか気持ちがスッキリしない、モヤモヤする。
その方の無意識の気持ちは、こんな感じかもしれません。
「こんなの全然欲しくないよ!
私の要望も聞かないで、一方的に物をくれるなんて、押しつけがましいな。
恩を売って、後でなにか見返りでも求めているのかな」
こんな風に、物をもらうことが重荷に感じているかもしれません。
一方で、
「いや、そんなうがった見方をしてはダメだ。
相手を悪く思うなんて、人間として間違っている。
きっと相手は親切でしてくれているんだ。
感謝しないといけないんだ!」
と、無理矢理、自分の心をねじ伏せようとしているかもしれません。
こういった例は、セッションでよくお聞きするパターンです。
こんな感じで自分の心を捻じ曲げれば、苦しさを感じて当然です。
一方で、無意識の心だから、本人はよく分からなくて、
「何だかモヤモヤする……」
となるわけです。
人生を大きく左右するほど強い欲(例)
そして、第2の層にある「自分についてのストーリー」の中には、人それぞれ
人生を大きく左右するほど強いもの
があります。
今回、1つ、その例を解説します。
「人から愛される、価値のある自分でいたい」
という、とても強い欲についてです。
そして、その欲は、
「人から愛されない価値のない自分は、存在してはいけない」
という存在条件にまで発展し、
人生を揺るがす強い思い込みになります。
ここから、心はさらに複雑に動きます。
通常私たちは、悩んでいる時や、うまくいかない時、
人から心配されたり、気遣ってもらったりすることがあります。
そうした時、
「気にかけてもらえる自分は愛されている、価値がある」
という感覚が、知らないうちに心の中に作られていくのです。
すると、
・悩みをなくしたい
・幸せになりたい
・できるようになりたい
と思っていても、その一方で、
悩みや苦しみがなくなることに、心が抵抗する
ことがあります。
これが無意識の心の動きです。
愛されない価値のない自分は存在してはいけない
↓
悩んだり苦しんでいる時に優しくしてもらえる
↓
気遣われた。愛された。自分は価値がある。存在して良い
↓
悩みや苦しみを手ばなしたくない
本人は、この心の動きに気づきません。
だからこそ、
・変わりたいのに、なぜか変われない
・同じことで何度も悩んでしまう
・何をやっても上手くいかない
ということが起こるのです。
もちろん、
「価値ある自分でいたい」
という欲は、苦しみの一例に過ぎません。
ただ、多くの方が共通して抱いているため、例として挙げました。
では、どうすれば苦しみはなくなるのか?
苦しみをなくすために必要なのは、まず、
自分の心に生じているものを、あるがまま観察すること。
「こうあるべき」
「こうなってほしい」
「こうなってほしくない」
という欲や執着に気づき、
それを無理に変えようとせず、ただ観察する。
「ああ、今、自分にはこんな欲があるんだな」
「ああ、私はこれを恐れているんだな」
と、自分でも気づいていなかった心の動きを観ていきます。
頭で、
「執着してはいけない」
「欲を手ばなさなければならない」
と考えるのではありません。
自分の心で実際に起きていることを観察し、
「なぜ、自分は苦しんでいるのか」
その仕組みを理解していきます。
そして、次に、
思考であれ、感情であれ、心に浮かんだものを
「自分のもの」
と、一体化させないことです。
「自分が考えた」ではなく、
「そういう思考が生じたなぁ」
「イライラする」ではなく、
「怒りが生じたなぁ」
こうして「自分」の一部にしなければ、ただ、過ぎ去っていくだけ。
悩み苦しみにはならないのです。
セッションでは何をするのか
無意識の心の動き、特に、第2の層の心の動きひも解いていきます。
あなた自身がまだ気づいていない、人生を左右するような大きなしがみつき。
気づいていても、見ないようにしていること。
そこまで踏み込んで、あなたの心を明らかにします。
何にあなたがつまずいているのか、執着しているのか、
ご自身で理解できるところまで導きます。
また、
・「自分」の気持ち
・「自分」の考え
のように、「自分」と言う錯覚にしがみつかずに、
ただ、あるがまま、心に生じたものを手放せるよう、練習をしていきます。
あなた自身が苦しみと向き合い、
心が解放される方向へ進めますように。