69章 形に依存しない:瞑想で智慧が育つわけではない
私は、これまでの歩みを振り返ってみました。
そして、「呼吸瞑想」「歩行瞑想」といった形ある瞑想が、
自分にはどれほど向いていなかったのかを、改めてはっきりと自覚しました。
仏教と出会ってから15年以上、
「苦しみから解放される唯一の方法は、瞑想をすること」
と思い込み、全然成果も出ないのに、形ある瞑想を必死でやり続けました。
でも、振り返ってみると、形ある瞑想で、明確な成果を感じることができたのは、
「流れに入る」という体験をした前後の、ほんの数か月だけでした。
(34章~53章の期間)
そしてその後、瞑想をすることは、ほぼ無くなりました。
強い体調不良と、心が劇的に変化することで、集中力を保てなくなったからです。
私は、形ある瞑想においては、完全に劣等生です。
とてもとても、努力しました。
でも、「流れに入る」前後の期間、一時的に上手くいっただけで、大して上達しませんでした。
一点集中ができないのです。
「呼吸に意識を向けましょう。歩く足に意識を向けましょう」
と言われても、対象に意識を向け続けることが、私では困難でした。
そして、瞑想をしても、全然集中できず、考え事でいっぱいになることも、多々ありました。
だから、もう何年も、形ある瞑想自体をしていません。
でも、苦しみから解放される智慧は生じました。
智慧とは、瞑想を行うことで生じるものではなく、
「心の仕組み、苦しみの因果を理解できた」
ときに、生じるものです。
理解するために、形ある瞑想が重要な手段になる人もいるでしょう。
そのような人のほうが、多いのかもしれません。
でも、私は、智慧が生じる手段が、瞑想では無かった。
私は、形ある瞑想で身体を観る代わりに、ほとんどの時間、
日常生活の中で、心身、特に心を観察し続けました。
1点集中、ある対象に意識を向け続けるのではなく、
観察対象自体がうつろうことを、観察していたのです。
そして、その観察をもとに、思考を使って考察し続けました。
心の動きを、紙に書き出して考察することも、頻繁にありました。
形ある瞑想ではなく、日常生活での心身の観察と考察によって、
苦しみの因果を見抜き、智慧が生じたのです。
考察が得意な私は、瞑想をすると、かえって思考を無理に抑え込む形となり、
その反動で、思考が暴走していたことにも気づきました。
だから、リトリートのように長期間、思考が静まった状態が続くと、
その後の暴走が手に負えなかったのです。
そして、「瞑想ができない、自分はダメだ」と自己否定し、
瞑想をすることで、かえって苦しみを増やしていました。
私は、修行の途中で、形ある瞑想を諦めました。
「自分には向いてない、無理だ」と。
その選択は、今振り返って、大変適切なものであったと思います。
今、日本でも、世界的にも、瞑想はブームになっていると感じます。
きっと、多くの人は、「瞑想をすれば、心は楽になる」と思っていることでしょう。
でも瞑想は、智慧を育てるための、一つの手段にすぎません。
そして、瞑想に向いていない人もまた、います。
人には、向き不向き、得意不得意があります。
ブッダは、それを分かっていて、私のようなタイプの修行者には、無理に瞑想をさせなかったようです。
重要なことは、
「何にも依らない(依存、執着しない)」
ことです。
どちら側にも執着しない=「中道」です。
これが、苦しみから解放される道です。
ですから、瞑想がご自身に合っていれば、もちろん続ければいいし、
合っていなければ、違う方法を選んで良いのです。
「いつもは瞑想が合っているんだけれど、今日は合っていないな」
そんな時は、無理にやらないことです。
瞑想が合っている方も、
「瞑想こそが、苦しみから解放される唯一の方法だ」
などと、形ある瞑想に依らないで下さいね。
