68章 形に依存しない:瞑想で智慧が育つわけではない

 

私は、これまでの歩みを振り返ってみました。

そして、「呼吸瞑想」「歩行瞑想」といった形ある瞑想が、

自分にはどれほど向いていなかったのかを、改めてはっきりと自覚しました。

 

仏教と出会ってから15年以上、

「苦しみから解放される唯一の方法は、瞑想をすること」

と思い込み、全然成果も出ないのに、形ある瞑想を必死でやり続けました。

 

でも、振り返ってみると、形ある瞑想で、明確な成果を感じることができたのは、

「流れに入る」という体験をした前後の、ほんの数か月だけでした。

(34章~53章の期間)

 

そしてその後、瞑想をすることは、ほぼ無くなりました。

強い体調不良と、心が劇的に変化することで、集中力を保てなくなったからです。

私は、形ある瞑想においては、完全に劣等生です。

 

とてもとても、努力しました。

でも、「流れに入る」前後の期間、一時的に上手くいっただけで、大して上達しませんでした。

一点集中ができないのです。

 

「呼吸に意識を向けましょう。歩く足に意識を向けましょう」

と言われても、対象に意識を向け続けることが、私では困難でした。

そして、瞑想をしても、全然集中できず、考え事でいっぱいになることも、多々ありました。

 

 

だから、もう何年も、形ある瞑想自体をしていません。

でも、苦しみから解放される智慧は生じました。

 

智慧とは、瞑想を行うことで生じるものではなく、

「心の仕組み、苦しみの因果を理解できた」

ときに、生じるものです。

 

私は、形ある瞑想で身体を観る代わりに、ほとんどの時間、

日常生活の中で、心身、特に心を観察し続けました。

 

1点集中、ある対象に意識を向け続けるのではなく、

観察対象自体がうつろうことを、観察していたのです。

 

そして、その観察をもとに、思考を使って考察し続けました。

心の動きを、紙に書き出して考察することも、頻繁にありました。

 

形ある瞑想ではなく、日常生活での心身の観察と考察によって、

苦しみの因果を見抜き、智慧が生じたのです。

 

瞑想をすると、かえって思考を無理に抑え込む形となり、

その反動で、思考が暴走していたことにも気づきました。

 

だから、リトリートのように長期間、思考が静まった状態が続くと、

その後の暴走が手に負えなかったのです。

 

そして、「瞑想ができない、自分はダメだ」と自己否定し、

瞑想をすることで、かえって苦しみを増やしていました。

 

私は、修行の途中で、形ある瞑想を諦めました。

「自分には向いてない、無理だ」と。

その選択は、今振り返って、大変適切なものであったと思います。

 

 

今、日本でも、世界的にも、瞑想はブームになっていると感じます。

きっと、多くの人は、「瞑想をすれば、心は楽になる」と思っていることでしょう。

 

でも、瞑想で智慧が育つわけでは無いのです。

瞑想は、智慧を育てるための、補助的な手段にすぎません。

 

そして怖いことは、瞑想をすると、一時的に心が静まってしまうことです。

瞑想をしている間だけ静まるのであれば、それほど問題はありません。

 

でも、日常的に瞑想をすればするほど、

瞑想していない時でも、静まりは長く継続します。

 

そうすると、

「自分は楽になったのだ」と勘違いし、

それ以上、心を観なくなります。

 

心を観察する代わりに、

「一時的な心の静けさ」や、「静けさを生み出す瞑想」に執着してしまうのです。

 

私は幸い、心が静まることは、人生でほとんどありませんでした。

智慧が生じても、むしろ心はジェットコースターのように、心は荒れ狂いました。

 

荒れ狂う心を観察することで、

「心とは、苦しみとは何か」

が理解でき、心が楽になっていったのです。

 

もし私が、形ある瞑想が得意で、心が常に静まっていたとしたら、

智慧もないのに「私は智慧がある」と慢心して、苦しみのただ中に居続けたかもしれません。

 

だから、瞑想が得意で、心が静まる傾向にある方は、要注意です。

一時的に心が静まることと、苦しみから解放されることは、全く違うからです。

 

重要なことは、

「何にも依らない(依存、執着しない)」

ことです。

 

どちら側にも執着しない=「中道」です。

これが、苦しみから解放される道です。

 

瞑想が合っている方も、

「瞑想こそが、苦しみから解放される唯一の方法だ」

などと、形ある瞑想に依らないで下さいね。

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