70章 何にも依らない中道

 

65章の体験後、アチャン・チャー師の本を読んでいると、「何か違う」という強い違和感が何度も生じていました。

 

何度か書いてきたように、

私はこれまで、アチャン・チャー師を絶対的な師のように捉えていました。

 

おそらく師は苦しみから完全に解放された阿羅漢であり、その言葉はすべて真理だと。

そのため、今までも違和感を感じてはいたものの、私の理解が足りないだけだと考えていました。

 

しかし、改めて本を読み返すと、その違和感は、明確に根拠があることが分かってきました。

 

例えば、サマタ瞑想をせずにヴィパッサナー瞑想へ進んでも、修行を完成することはできないと明言されていたり、

深いサマーディについて、「心は力強く、清らかです。これがサマーディの究極レベルです」などと語られている

 

これまで書いてきたように、

私は、サマタ瞑想が苦手でほぼしていないにも関わらず、ヴィパッサナーは容易にでき、智慧が付いていった。

更に私は、心というものを、「強い・清らか」といった、擬人化したような確固たる一つの存在として捉えたことがありません。

 

思考や感情、感覚や認識が、条件によって生じては消えていくという現象だけしかない。

その中心に、それらを所有したり、動かしたりする固定した「心」があるとは感じません。

 

私の心は、大抵の場合、静かではありませんでした。

思考も収まらず、苦しみも絶えず生じていました。

 

でも、智慧は生じた。

心を静めたことによって智慧を得たのではなく、

心が激しく動き、苦しみが生じる中で、その現象を観察し続けたことによって、智慧が育っていきました。

 

 

アチャン・チャー師の言葉には、今でも真理だと感じるものが数多くあります。

同時に、深いサマーディ体験から生まれた解釈や、

タイ森林派の修行法を普遍的なものとする考えも混じっているように、今の私には見えます。

 

では、アチャン・チャー師は本当に阿羅漢だったのか。

もっと対象を広げると、ブッダは本当に全ての真理を体得していたのか。

 

「何を信じれば良いのだろう」という思考が生じました。

と同時に、「何かを信じようとしているから、苦しむのだ」という思考も生じました。

 

アチャン・チャー師が阿羅漢だったのか、ブッダが完全に悟っていたのか。

それを私が決める必要はありません。

その答えがどうであっても、私が観察してきた現象は、何も変わらないからです。

 

かつて私は、

ブッダの教えや、アチャン・チャー師・スティサート師の言葉を、

自分より智慧のある方の言葉として受け取っていました。

 

自分の理解が正しいかどうかを、その人たちの言葉によって確かめようとする部分も残っていました。

 

しかし、私はそこから自由になりました。

何ものにも依らないとは、教えや経典だけでなく、

ブッダにも、師と呼んできた存在にも、依らないということでした。

 

ブッダが語ったとされる言葉であっても、誰かが阿羅漢と呼ばれていても、

それだけで真実になるわけではありません。

 

誰が語ったかではなく、自分の観察によって確認できるかどうか。

それだけが残りました。

 

ブッダや先達たちを、否定したのではありません。

私は先達たちに多くの学びを得ました。

そのことに対する感謝は消えません。

 

ただ、その人たちを自分より上に置き、その言葉を真理の保証として用いる必要がなくなったのです。

誰が語ったかでも、その人がどんな称号を持つかでもなく、ただ生じている現象を観る。

自分の理解を保証してくれる存在も、従うべき完成者も必要ありません。

 

もう、真理を仏教に合わせる必要がないのです。

真理とそうでないものを分ける基準は、権威の中ではなく、現象そのものの中にある。

 

仏教にも、教えにも、経典にも、ブッダにも、師にも依らず、ただ現象のみを観る。

そして「依らない」という想いにも依らない。

 

それが、私の行き着いた「何にも依らない中道」です。