69章 何にも依らない中道

 

65章の体験後、アチャン・チャー師の本を読んでいると、

「何か違う」という違和感が強く生じていました。

 

何度か書いてきたように、私はこれまで、アチャン・チャー師を絶対的な師のように捉えていました。

おそらく師は苦しみから完全に解放された阿羅漢であり、その言葉はすべて真理だと。

そのため、今までも違和感を感じてはいたものの、私の理解が足りないだけだと考えていました。

 

しかし、改めて本を読み返すと、その違和感は、明確に根拠があることが分かってきました。

例えば、

 

・サマタ瞑想をせずにヴィパッサナー瞑想へ進んでも、修行を完成することはできないと明言されていたり、サマーディ(禅定)を重視する記述

・やたらと戒律を厳格に守ることを重視

・「本来の心」や「心は本来、力強く、清らか」と言った記述

 

こういったことが、私が現象を観察した事実と齟齬をきたすのです。

 

これまで書いてきたように、

私は、サマタ瞑想が苦手でほぼしていないにも関わらず、ヴィパッサナーは容易にでき、智慧が付いていった。

サマタ瞑想どころか、形ある瞑想全般が出来なかったので、私の心は、大抵の場合、静かではありませんでした。

思考も収まらず、苦しみも絶えず生じていました。

でも、智慧は生じた。

 

心を静めたことによって智慧を得たのではなく、

心が激しく動き、苦しみが生じる中で、その現象を観察し続けたことによって、智慧が育っていきました。

つまり、私にはサマタ瞑想、もっというと形ある瞑想が必須では無かった。

 

 

流れに入るまで、私は五戒なんて全く守ってこなかった。でも智慧が生じた。

智慧が生じた後、戒を破ることができなくなったという順番だった。

 

そもそも、欲や怒りがあるからこそ、人は戒を破る。

ならば「戒を破らないようにする」こと以上に、

「なぜ今、それをしたいと思ったのか」「何を欲しているのか」を観察することの方が重要ではないか。

 

私の場合は、戒を守ることで欲が消えたのではなく、

観察によって欲や執着が減った結果として、自然と戒を破れなくなっていったのだから。

 

なぜ師は、そのような解説をほとんどせず、「まず戒を守ること」といった指導をするのだろうか?

 

 

また私は、心というものを、「本来とそれ以外」や、「強い・清らか」といった、

擬人化したような確固たる一つの存在として捉えたことがありません。

 

思考や感情、感覚や認識が、条件によって生じては消えていくという現象だけしかない。

その中心に、それらを所有したり、動かしたりする固定した「心」があるとは感じません。

 

だから私には、「汚れた心を清らかな本来の心へ戻す」という解釈そのものがあり得ない。

「汚れた」も「清らか」も無い。

私は、心の動きに「良い悪い」と価値づけをせず、

怒りが生じれば怒りを、欲が生じれば欲を、ただ条件によって生じた現象として観察するだけでした。

 

そういった観察の結果と、アチャン・チャー師の言葉とが、齟齬をきたす箇所が頻繁に見えるようになった。

 

 

更に、仏典自体にも矛盾を感じることが増えてしまった。

 

私には智慧が生じる条件として、形ある瞑想がほぼ不要だったにも関わらず、

仏典では、様々な瞑想法が苦しみから解放されるための修行として、細かく説かれている。

 

前章で書いたように、瞑想は智慧が生じる一つの手段にすぎないはずなのに、

まるで「瞑想することで智慧が生じる」と言わんばかりの記述。

 

不浄観という、「身体は不浄である」とみなすことで、肉体への執着を手放すことを目的とした瞑想法がありますが、

そもそも「不浄」なんて価値づけをしたら、嫌悪感・怒りが生じるだけではないか。

 

実際に仏典では、ブッダが不浄観を強く推奨した結果、自分の身の不浄さに耐え切れなくなって、自殺者が続出した、という記述があります。

しかも、その事件以降も、不浄観そのものを撤回したわけではなく、引き続き修行法として用いられている。

 

以前は何気なく読んでいた記述も、智慧が付いてしまえば

「自殺までするかは予想できないが、『不浄』などと価値づけしたら、当然ながら嫌悪感や怒りの感情で苦しむのは当たり前」

と容易に分かります。

実際、仏典には、不浄観によって比丘たちが自分の身体を嫌悪するようになった、と書かれています。

 

だから、綺麗なものから不浄なものへと、価値づけの方向性を変えるのではなく、

「身体に魅力を感じて執着する心が生じたな」

「身体が汚いと感じて、嫌悪感が生じているな」

そのようにただ観察することを積み重ねて、執着から離れることができる。

 

私が考えるまでもなく簡単に理解できることが、ブッダには分からなかったのだろうか?

不浄観は一例ですが、仏典の記述に突っ込みどころが満載になってしまったのです。

 

ブッダ自身が完全に悟って智慧があったかどうかは、検証できません。

そもそも、仏典に書かれている「ブッダの言葉」とされている記述が、本当にブッダ本人が言った言葉なのか、検証不能なのですから。

しかし、少なくとも、アチャン・チャー師の言葉と同様に、仏典に書かれている記述は、おかしなところ、突っ込みどころが多い。

 

 

ここに至って、私は、自分の観察したもの以外、何も信じられなくなりました。

 

かつて私は、

ブッダの教え、仏典の記述、アチャン・チャー師・スティサート師の言葉を、

自分より智慧のある方の言葉として、信じていました。

無意識で、深く執着し、しがみついていたのです。

 

しかし、私はもう、観察と考察によって得たもの以外、外側に依らなくなった。

私はそこから自由になったのです。

 

何にも依らないとは、

ブッダにも、師と呼んできた存在にも、教えにも経典にも、依らないということ。

 

ブッダが語ったとされる言葉であっても、誰かが阿羅漢と呼ばれていても、

仏典に何が書かれていても、それは真実という証拠にはならない。

 

誰が語ったかではなく、自分の観察によって確認できるかどうか。

それだけが残りました。

何かを支えにしたり、よりどころとする必要がなくなったのです。

 

「何にも依らない」と決意したから、依らなくなったわけではありません。

依ることのできる、絶対に正しい確かなものなど、どこにもない。

ブッダも師も仏典も、正しさを保証してくれない。

結局のところ、全ては無常であり無我。

 

それが観えたから、自然と依らなくなったのです。

依るべきものがあると思っているうちは、「何にも依らない」といくら決意しても、結局そこに依ってしまう。

依らないこともまた、努力して行うものではない。

それを、まざまざと体験したのです。

 

 

真理にも、仏教にも、教えにも、経典にも、ブッダにも、師にも、修行にも依らず、ただ現象のみを観る。

そして「依らない」という想いにも依らない。

 

それが、私の行き着いた「何にも依らない中道」です。