「自分」なんて存在しない?
前回の記事で
を記事にしました。
本当の自分って何だろう?と考えている時は、
●現実の自分や、自分の置かれている環境・状況から逃げている時
と、ご紹介しましたね。
今回は、
「自分」なんて存在しない
をテーマに、生きづらさの原因と解決方法を、ご紹介します。
仏教では、この「本質的には、自分というものは存在しない」ということを、
「無我」
と呼びます。
そして、
「自我」というものを作り出すことで、苦しみが生まれる
と、説いています。
例えば、自我(自分)があると、他者との比較が生じます。
そうすると、
- 「あの人と比べて、自分はダメだ」と自己否定したり
- 「オレはアイツより頭が良い」と優越感を感じたりします
また、自我があると、浮かんでくる思考を「自分の考え」と捉え、
- 「私はこうしたい、ああしたい。あれは嫌、これはしたくない」といったエゴが生じたり
- 「自分の考えは正しい」と正しさに固執したりします
更に、生じてくる感情も「自分の感情」となり、ネガティブ感情と一体化して、苦しみます。
例えば、不安が生じると、その不安と一体化して、苦しんでしまうのですね。
これらは全て、「自我(自分)」というものがある前提で、起こります。
「自分はダメだ、自分に自信が無い」などの自己肯定感の低さも、
全て「自我(自分)」があることが、前提ですよね。
ところで、皆さん
「自分」
って、何を指しますか?
身体ですか?
思考ですか?
感情ですか?
それとも、全部まとめて「自分」ですか?
何をもって「自分」と表現するのか、
そのカラクリが分かると、
「本質的に自分というものは存在しない」ということが理解でき、
生きづらさを解消していくことができます。
「本質的に自分が無い(無我)」って、どういうこと?
まず、肉体を考えてみましょう。
私達は、この肉体を、「自分」と信じて疑わないですよね。
ところで、切った爪は、自分ですか?
床に落ちている髪の毛は、自分ですか?
排泄物は、自分でしょうか?
恐らく、「自分」とは感じないでしょう。
でも、ついさっきまでは、「自分」だったはずです。
それとも、爪や髪の毛や排泄物は「自分」ではなく、頭とか胴体だけが「自分」なのでしょうか?
では、肉体が成長する前、精子や卵子、受精卵は、自分と捉えますか?
精子・卵子・受精卵を自分とみなさないなら、一体、いつから「自分」になるのでしょうか?
心臓が止まり、「死」を迎えた肉体は、「自分」でしょうか?
もし、死と共に「自分」というものは無くなる、と考えるなら、
元々、肉体は「自分ではない」ということですよね。
だって、死んだ後も、肉体は存在しているのですから。
死んだ後の肉体も「自分」とするならば、
どこまでが「自分」でしょうか?
肉や内臓は腐っていきます。
最後には骨だけが残り、
その骨も、いずれは粉々になっていきます。
どの時点までが「自分」なのでしょうか?
こうやって突き詰めて考えていくと、「自分の身体」とみなしているものには「実態が無い」ことが分かります。
つまり、「自分の身体」という確固たるものは、実は存在していなくて、
私達がその時その時、都合良く、「自分の身体」と勝手に定義しているに過ぎないのです。
そして、「自分」とか「自分の身体」と捉えてしまうので、
「自分の身体は、自分でコントロールできるはずだ」
と思い込んでしまいます。
これが苦しみの元です。
私達は、肉体をコントロールすることはできません。
私はよく、
「髪の毛1本、自分の思い通りにはできない」
と言いますが、
髪の毛が抜けることも、
老いを止めることも、
病気にならないことも、
死なないようにすることも、
私達はできないのです。
「自分の身体」と誤った考えを持つことで、
実際には、コントロールできないことをしようとして、
苦しみが生まれます。
では、思考や感情は「自分」でしょうか?
私達は、1日6万回、思考していると言われています。
感情も、思考に付随して生じますので、1日の中で、たくさんの感情が生まれます。
嬉しい、楽しい、感動する、悲しい、寂しい、不安、怒り、嫉妬、羨望・・・・
もし、「確固たる自分」というものがあるならば、
こんなにも、思考や感情が、コロコロ変わるものでしょうか?
「あの人は愛想が無いから嫌」
なんて思って、嫌悪感や怒りが生じる。
でも、その人の良い面を見ると
「意外に優しい面があるなあ。結構、良い人かも」
なんて、コロッと考えが変わって、嬉しさが生じたりする。
こんな感じで、私達は瞬間瞬間、様々な思考が浮かび、評価が生まれ、
それに伴って、喜んだり悲しがったりと、様々な感情が生じます。
本当に、コロコロコロコロ、目まぐるしく、思考も感情も生じては消えていきます。
こんなに一貫性の無い思考や感情を、「確固たる自分がある」などと、見なせるでしょうか?
更に、思考や感情が「自分」であるならば、
肉体と同じ質問になりますが、
いつからが、そして、いつまでが「自分」なのでしょうか?
精子や卵子や受精卵の時点では、思考も感情も生まれません。
いつから「自分」となるのでしょうか?
生きている間も、寝たり、意識が失われる時があります。
事故などで植物人間の状態になることもあります。
このような、思考や感情を感じられない時、「自分」はどこにいってしまうでしょうか?
肉体と同様、思考や感情も、突き詰めていくと、「自分の思考」「自分の感情」という確固たるものは、存在していなくて、
私達がその時その時、都合良く、「自分の思考・感情」と勝手に定義しているに過ぎません。
そして、「自分の思考、自分の感情」と捉えることで、
「思考や感情は、自分でコントロールできる」
と誤った考え方をして、苦しんでしまうのです。
肉体も、思考も、感情も、
瞬間瞬間、生じては、変化し、消えていくもの(生滅)
であり、「確固たる自分」など、どこにも存在しません。
この、「瞬間瞬間、生じては、変化し、消えていく」ことを、仏教では
無 常
と言います。
全てのものが、一瞬たりとも同じ状態では留まらない。
常に変化し続けている、
ということですね。
そして、常に変化し続けるものですから、
私達には、コントロールすることができないのです。
無我・無常が分かると、生きづらさは改善する!
この
- 無我(確固たる自分なんて存在しない)
- 無常(全てのものは、変化生滅する)
が理解できると、生きづらさは改善します。
と言いますか、100%理解出来たら、
決して苦しむことが無くなる、
究極の楽「悟り」
を得ることができます・笑
無我や無常が分かると、物事に固執・執着することが無くなります。
例えば、私達は、具合が悪くなったり、病気になったり、また老いて、いずれは死にます。
でもそのような時、
「肉体は変化するものだから、病気も、老いも、死も、起こるのが当たり前だ」
と捉えることができ、苦しみが生じません。
「老いないように、病気にならないように、死なないように」
と、現実否定をしなくなるのです。
私は、かなり体調が悪いです。
ほぼ毎日、どこかしら具合が悪くて、日常生活に支障が出ることも多いです。
でも、具合の悪さも、瞬間瞬間、変化しています。
ですから、私はその変化を観察します。
そして、
「どうせ、この状態は長く続かないのなから、放っておこう」と、頓着しません。
そうすれば、苦しみは、生じてこないのです。
思考や、感情も同じです。
どんな思考や感情が出ても、それは続きません。
放っておけば、消えて無くなってしまうのです。
私も皆さんと同じように、自己否定やネガティブ感情が生じます。
でも、頓着しません。
「自分はダメだな~」という考えが出ても、
「どうせ、そのうち消えるから、放っておこう」と、執着しないのです。
不安や怒りが出ても、ただ、その感情を眺めるだけです。
だって、すぐに消えて無くなってしまいますから。
変化しない自己否定も、不安も、怒りも無いのです。
確固たるものなど、どこにも存在しないのです。
そして、
「自己否定が出ないように、不安が出ないように」
と、コントロールしようと、あがきません。
無我や無常を理解しないと、人は、肉体にも、思考にも、感情にも執着します。
病気になったら、
「自分の身体は、病気にはならないはずだ!」
と現実に対抗しようして、苦しむのです。
過去のトラウマ体験が思い浮かんできたら、
「そんなはずはない。過去のことが思い浮かぶのはおかしい」
と否定して、苦しみます。
でも、私達は、病気にもなります。
過去の辛い記憶も、浮かんできます。
だって、無常で無我だから。
「こんなことは、起きないはずだ」
なんて、通用しないのです。
コントロールなど、できない
のです。
「全てのものは、生じては、変化し、消えていく」
この真実がわかると、固執・執着がなくなり、
現実をあるがまま受け止められ、「本当の楽」が生まれます。
苦しみが無くなるのです。
ということで、今回は、
本質的には「自分」なんて存在しない
をテーマに、生きづらさ改善のヒントをお伝えしました。
ぜひ、日常生活で、「無我・無常」を感じてみて下さいね。
生きやすくなりますよ。
今回の記事では、「なぜ思考や感情が生じるのか」という、
原因
には触れていません。
でも、これも仏教では、「無我・無常」と並んで、苦しみから解放されるための、重要な理論です。
10/23のセミナーでは、このあたりも、詳しく解説します。
ご興味ある方は、セミナー、ご参加くださいね。
★ 10/23オンラインセミナーについては、
⇒ コチラ